大丈夫?と心配する訳でもなく手当するからと近寄ってくる訳でもなく、目が合うなり「ココアいれてあげる」とだけ呟いて女は視界から消えた。いつものように舌を打つと口の中の生臭さが一層香り、眉を顰めると全身の傷口が痛みを増すように感じられた。両足を引き摺るように歩いて玄関から脱すると、女がご丁寧に閉めやがったドアをかろうじて動く左手で開ける。キッチンから俺を呼ぶ声がした。

「立ってないで座れば?」

あ、でも血がついたら嫌だからわたしの椅子はやめてね。と付け加えて、女はポットを火にかける。それから戸棚をひっくり返すようにして目的のパッケージを探し始める。鼻歌まで歌っている能天気な女の様子と頼りないキャミソールにホットパンツのみで動く姿に無性に腹が立ったが、怒鳴りつけるエネルギーを生憎今は持ち合わせていなかった。普段ならこんな時間は誰よりも早く寝ているくせに、何故今日に限って起きていたのだろうと、浮かんだ疑問を言葉にするのは酷く面倒だ。

「まあ甘いものでも飲んで元気出そうよ」
「別に元気あるとかないとかの問題じゃねーよ」
「だって疲れたときは甘いものがいいってリゾットが言ってたもん」
「じゃあアイツにだけいれてやればいいだろうが」
「あれもしかしてやきもち?」
「殺すぞ」

全身を襲う痛みと疲労とは裏腹にたいそう滑らかに口は動く。女の言葉に従うのは癪だがそろそろ立っているのも限界だった。手近な椅子に腰かけるとちょっとそこわたしの席!とキッチンから声が飛んできたがそのまま無視を決め込む。別に席なんか決まっていない。
元民家のこのアジトにはキッチンとリビングとダイニングがあり、誰も料理なんかしないのに一通りの食器類や食材が揃っていた。中でも女がジャッポーネから個人輸入したらしいココアはクソがつくほど甘く吐き気さえ催す代物だということをチーム全員が知っている。それでもなお飲みたがるのはこいつの他にイルーゾォとペッシくらいのものなのに、何故毎回大量に仕入れては在庫を抱えることを繰り返すのか。胸まで焼けそうな甘い匂いが鼻をつき、ぼんやりした思考は遮られた。女は真新しい白いマグを両手で持ってそろそろと近寄ってくる。今にもこぼしそうだった。

「それは誤解だよイタリアで売ってるココアの方が200倍くらい甘いんだよ、普段飲まないから知らないだけ」
「200倍って何なんだよ適当に言ってんじゃねーよ」
「ねえねえギアッチョ」
「なんだよ」
「ココアどう?甘い?美味しい?甘い?」
「クソ不味い」
「とか言って飲んでるじゃん。ギアッチョってばやさしー」
「今すぐテメーの顔面にぶちまけてもいいんだぜ。蟻たかってくんぞ」
「えー全然怖くない」
「殺す」
「ねえねえギアッチョ」
「なんだよ」
「眼鏡くもってるよ。アハハウケるーダサーい」
「…マジ殺す」
「ねえねえギアッチョ」
「なンだよ話しかけんじゃねーよ疲れてんだよ」
「ちゃんと帰ってきてね」

血だらけでも手足なくなっててもいいからさ。
そんな女の声を聞きながら、俺は曇っているらしい眼鏡を外して袖口で拭ってみたもののかえって血で汚れてしまい、服のどこかに白い部分が残っていないかを探していた。顔をあげてみるとぼやけた視界でかろうじて女が笑っているのがわかった。でも泣いているようにも見えた。あ、でも足は少なくとも1本残したほうがいいかもね、自力で帰ってこれないと困るから。と付け足して遠慮がちに視線を寄越すと、人のためにいれたはずのココアをそっと奪って口付ける。あまーい、とバカみたいに笑った顔はやはり泣いているようだった。
知るか、と吐き捨てるとその表情がまた一層泣いている方に傾いたので、考えるよりも先に口が滑った。

「次からはカッフェいれとけ」

我ながら不機嫌極まりない声が出たと思う。しかし女はひどく幸福そうに微笑んだ。俺はまた舌を打った。